山中家の歴史を紐解く「願わくば、我に七難八苦を与えたまへ」山中鹿之介

わたしは幼少期より、この言葉が脳裏から離れることはなく、常にこの原点に生きる哲学が添えられているように思います、両親のルーツを掘り下げる中、父の先祖、山陰 岡山の山中家の歴史を幼い頃から聞いておりました。また、夢枕に立つ白装束のお爺さんと、月の兜をつけた武将の姿、そして2本の刀が私の中には、度々、夢にでてくるのです。

山中鹿介?誰だろう?と思われた方もいらっしゃるでしょう。私たちは錚々たる戦国武将の言葉から、人生を学んできました。真田幸村、徳川家康、織田信長、豊臣秀吉、伊達政宗などなど…知らない人はまずいないでしょう。
歴史の教科書に名を残すような成果は挙げていませんが、生き様はこれまでの名将たちに勝るとも劣りません。

山中鹿介の生涯

山中鹿介は、山中幸盛が正式名称。中国地方で毛利氏と争った戦国大名、尼子氏(あまごし)に使えた一武将です。尼子の殿様は、後世の評価によれば、暗愚。いっぽう、鹿介は子どもの頃から麒麟児として認められるほどの、武芸教養に秀でた武将。

他の拠点がどんどん毛利軍によって攻略されていくなか、鹿介の陣営だけは勝ち続けたといいます。最終的には、尼子氏の本拠地である月山富田城は兵糧が尽きて降伏しますが、その後も、鹿介は尼子氏再生のために全力を尽くします。
しかし、その努力もむなしく、三度目の失敗のときに謀殺されました。

「なぜ、有能とは言い難い主君に尽くしたのか?」、「あなたの才能を惜しむ人物は、光秀や秀吉を始めたくさんいたのに…」と。

勝海舟の随筆『氷川清話』に山中鹿介のことが次のように述懐されています。

「いわく、自分の気に入る歴史の武将はまったくいない。強いて挙げれば、山中鹿介と大石良雄である。鹿介は、凡庸な主君のために大望は果たせなかったが、それでも挫けず、倒れるまで戦った」

不撓不屈とは、彼のためにある言葉といっても過言ではないでしょう。

そんな男の最も有名なエピソードが、「願わくば、我に七難八苦を与えたまへ」です。

尼子氏再興のため、失敗と再起を繰り返しながら戦う鹿介の眼前には、苦難の道しかなかった。しかし鹿介はさらに一層の苦難を求めて、神に祈りました。
「志」だったのでしょう。

どんな不幸な出来事でも、有能な人物はそれをアドバンテージに変える。いっぽう思慮のない人物はどんな幸運をも災いにしてしまう」

己の「志」に忠実でいること。「志」は己のためにあるのではなく、また結果が重要なのでもなく、「志」を立てたというその事実がすでに尊い。

「我に七難八苦を与えたまへ」の原点は大乗仏教の経典『仁王経』にある

「七難即滅七福即生」、苦難はすなわち幸福である、と説かれています。

「勝ちにこだわる」結果が、「どんな手を使ってでも勝つ」に転落してはいけません。こだわりはむしろ、何度でも立ち上がる、不撓不屈、この一点に絞るのです。

「勝ち」も「負け」も天運。私たちが自分でできることは、自分の立てた「志」を裏切らないこと、踏み潰されても決して折れないことなのではないでしょうか。

人間とはともすれば挫け易いもの、そんな私たちだからこそ、山中鹿介はいつでも、生き様を見守っています。

引用
山中鹿介「七難八苦を与えたまえ」:哲学者 大竹稽氏のブログ
山中鹿介幸盛のゆかりの地まとめ:ナカシャクリエイテブ株式会社
山中幸盛:ウィキメディア