▶︎ YouTube|生死(いきたひ)デスカフェ


見ながら、何度も自分の人生と重なりました。
私は写真家として30年以上、奄美や東京で100歳を超える方々を撮り続けてきました。
「人は、どう生き切るのだろう」
100年を生きた人の顔、手、皺、眼差しを通して、ずっと「生」を見つめてきたように思います。
以前、目黒のお寺でデスカフェを開いていたこともあり、ひろ子さんの活動に、共通する死生観や哲学を感じました。
ひろ子さんのデスカフェでは、
数秘から自分の「氏名・指名・使命」を見つめたり、実際に棺に入る納棺体験をしたり、自分への弔辞を書き、代読してもらったり。
流石、ひろ子さん。
死を考えているようで、本当に問われているのは、
どう在りたいのか。
どう生きたいのか。
なのだと思います。
私自身も昨年、主人を自宅で看取りました。
主人とは30代の頃、友人から恋人になり、それぞれの人生を歩んだ後、51歳で再び出会い直し、人生の伴侶となりました。
夫婦として過ごした5年間。
主人の末期がんと向き合い、妻として、世帯主として生活と闘病を支えました。
そして二人で、
「私たちがどう生きたのか、記録を残そう」
と約束していました。
だから私は撮り続けました。
闘病の日々も、何気ない時間も、笑顔も、涙も、死も、見送りも、出棺も。
写真家だったからなのか。
二人とも表現者だったからなのか。
でも、一番にあったのは約束でした。
私が私を忘れないために。
私が、私たちを忘れないために。
死を残したかったのではなく、
私たちが、どう生きたのかを残したかった。
その記録を、私はまだ開くことができていません。
残したのに、まだ見られない。
それも、大切な人を見送った後を生きる、今の私です。
そして最近、思うのです。
今、私がやらなければならないことは、記録を作品として残すことだけではない、と。
主人から受け継いだ音屋369には、大切にしている言葉があります。
「すべての人が、表現者。」
表現とは、歌うことや演奏することだけではありません。
ずっと言えなかったことを話すこと。
悲しかった。
怖かった。
寂しかった。
ありがとう。
愛している。
そして、生きたい。
そんな心の奥の声を言葉にすることも、ひとつの表現です。
言うに言えなかった想いを、腹の底から話す。
話すことで、放す。
言えることで、癒える。
音屋369が、そんな場所にもなっていけたらと思っています。
死について話すことは、死ぬためではありません。
どう生きるかを話すこと。
誰かを見送った人も、
死が怖い人も、
大切な人に言えなかった言葉がある人も、
これからの人生を考えている人も。
泣いてもいい。
笑ってもいい。
黙っていてもいい。
誰かの言葉を、ただ聴いているだけでもいい。
私が伝えている「みたま磨き」も、最後に還るところは、
限りあるいのちを、どう生きるのか。
なのだと思います。
表現者としての友人、長谷川ひろ子さんと、いつかではなく、一緒にやってみたい。
「生死(いきたひ)× みたま磨き DEATH CAFE」
生きること。
死ぬこと。
愛すること。
見送ること。
そして、残された私たちが、もう一度生きること。
死を語りながら、最後は「生きる」へ還っていく。
すべての人が、表現者。
音屋369は、さまざまな方が、本来の
言えなかった想いを表現したり、自分のいのちと出会い直せる場所として、使っていただく、
それが今、主人からこの場所を受け継いだ私が、
次へ残していきたいものなのかもしれません。
とことん魂を語れる場所へ。
MARBOH
Heaven the soul
山中aama順子
